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この批評は書かれた時のままで出します。最初は飛ばして「Ⅰ海と俊の出会い」から呼んでいただいて結構です。2023年6月9日 映画批評 .藤村隆史

「コクリコ坂から」(2011) 宮崎吾朗~映画は近親相姦を超える  初出2011.9.1

Ⅰ街の風景・港から坂道を→逆から→下宿へ→海の出のショット・朝起きる海→鏡に向かって三つ編みを結う→階段下りる→窓を開け、台所でお釜に火をつけ、換気扇をつける→花を活け、父の写真に水→縁側から降りて旗を揚げる→俊の船へ→海の家・朝食→再び俊へ・船をつなぎ、去ってゆく船を成瀬目線で見つめながら自転車で海岸線の混雑した道路を通って学校の坂道へ→海、洗濯をし、鏡を少し見て家を出て、歩いて学校へ→教室で俊の詩を見せられる()→外で昼食→屋根の上の俊海が俊と見つめ合う(赤ナシ)俊、落下する手を出して握り合う二人(赤ナシ・外からの切り返し)→海、手を放し、俊プールへ落ちる→テーブルに戻る海()→帰宅→中廊下を渡って祖母の部屋へ行き、家計について褒められる→夕方、旗を降ろす時、オーヴァーラップで落下してくる俊の姿と重なる→フライを料理、妹の空と北斗等が俊の噂をしている傍らで海、キャベツを刻む→

Ⅱ翌日の下校時、妹が俊のサインを欲しがる部室で俊、振り向き海と俊が見つめ合う(赤ナシ)→俊、右手をネコに噛まれていて書けないので海、仕事(ガリ版を手伝う)→音楽あり。ちょっとした二人きりの部室の時間→海、緊急集会に出ずに走って学校を出て、歩いて帰宅。

カレーを作ろうとするが肉がない(冷蔵庫カメラ)→祖母の部屋で「上を向いて歩こう」→家を走り出た時、下校途中の俊に出会う自転車に二人乗り坂道を下る通行人をよけるために俊、ブレーキをかける→その拍子に二人の身体が接触する→肉屋へ→俊のコロッケをもらう→別れてコロッケを食べながらひとり街燈の坂道を登ってゆく海のバックショットからパンして丘の上の海の家を捉える→

Ⅳ翌朝、寝坊している画家(広小路)をおこし、書かれた絵に旗が描かれていることに気づく→そのために時間が狂い走って学校へ→カルチェラタンで早朝ガリ版を刷り終わった俊と下駄箱で再会()→二人で廊下や階段を走って教室へ→帰宅途中、海、魚屋へ→走って全学討論会へ引き返す→俊の演説に海・赤くなる。→夕陽の坂道を自転車を押しながら二人で帰宅(夕陽の歌が入る)→海、カルチェラタンの掃除を提案(海、真っ赤になる)夕陽と電線をバックにしたローアングルの海のクローズアップ(振り向くことでそれまでの逆光が順光となる)魚屋に魚を忘れたことを思い出し慌てて走り出す→→帰宅→

Ⅴ北斗らがウイスキーを飲むことになり、海「チーズを切りましょう」と席を立つ→北斗さんのサヨナラパーティの企画決まり、「男たちを呼ぶのよ!」に海、赤くなる→翌日、北斗のサヨナラパーティで、生垣のあいだから顔を出した俊に「ほくと」という信号を解読され海、大いに赤くなる→パーティ・海は手伝いに徹する→俊を家の中に案内し写真を見せる北斗のスピーチが始まると空に呼ばれる(スピーチは省略)夕暮れの中、去ってゆく俊と水沼に手を振る海と空、ここで海、赤くなる→

Ⅵ俊、自宅に帰宅し、写真を見る(この時点で二人は兄弟だと知っている)→カルチェラタンの大掃除→北斗の100点の答案用紙を見るために俊、海の横に並ぶ・海、赤くなる、しかし俊は怒ったように立ち去る→海、校庭でゴミを燃やしている俊に無視される→トイレで俊に水沼、どうかしたのかと聞く→海、自宅のキッチンで沈んでいる→翌朝、もうもうと赤や緑の煙を吐く煙突→船で俊、父に出生の秘密を聞く→丘の海の家にロングショットで旗が上る→海、俊の船の旗が見えない。海、家を出る北斗に挨拶をする→俊、早朝の坂道を自転車で駆け上がり、部室でガリ版をする→海、赤い傘を持って学校へ(横移動)→校門で号外を配っている俊に無視される→放課後いよいよ降り出した雨の中、海、赤い傘を差しながら校門で俊を待ち、二人は坂道を下りながら、真相が海へと告げられる→帰宅して眠る海→夢で父、母と会い、父の胸で泣く→覚める海の目に涙→

Ⅶ階段を降り、お釜に火をつけ、花を活け、父の写真の前に水を置き、旗を揚げる→学校へ海が到着したころには天気は晴れ、大改装へ→俊がシャンデリアのランプをつけて脚光を浴びているとき、ひとり仕事に励む海→取り壊しの情報→一緒に理事長に会いに行ってくれと水沼に頼まれる(赤くなる)→学校を休んで合流→東京へ理事長と会い、理事長、よし、わかった!と立ち上がった瞬間、海、赤くなる→新橋で水沼と別れて二人きりになった後桜木町で降りて山下公園の並木を歩いてからちんちん電車へ→海、俊に好きだと告白→帰宅すると玄関に赤い靴→キッチンで母と再会した海、赤くなる→母に真実を聞かされたあと、母に、俊はどんな子に育ったの、お父さんに似ているかと聞かれて泣く海理事長カルチェラタンに訪問→小野寺に会うため二人で「エスケープ」、ひたすら走る船へ向かってモーターボートで風を切って進む海と俊→俊、ブリッジでジャンプした海を抱きとめる→小野寺の話を聞く、「二人に敢えて嬉しい」と言われ、海、

こういう流れで映画は進んでいるとしよう。大雑把ではあるが、『』で書かれた出来事は『』で書かれた出来事を惹き起こすための『マクガフィン』である。『青』は想い出である。ちなみに「」は、海がほっぺたを赤らめたことを意味し、脚本には書かれていない。

■Ⅰ海と俊との出会い 

学校で昼休みに俊が屋根に上るというデモンストレーションは、地上の海と屋根の上の俊とを、上下の空間的差異において『見つめ合わせる』ために配置されている。その後、俊が屋根から飛び降り、俊と海とが初めて平行な同一空間に在らされることになる。上下から並行へ。もちろんこの「上下」とは身分関係における上下ではなく、映画的ポジションを選択する感受性としての「上下」である。海と俊、この二人を『構図=逆構図の切り返し』という、極めて映画的な運動において『初めて見つめ合わせる』こと、そのための状況をいかにして創り上げてゆくのか、そうした思考の流れとして俊を屋根の上へと登らせている。間違っても『屋根の上に出て来た俊がふと下を見るとそこに海がいて目が合った』という「読み」から映画は撮られていない。俊は自らの意志=意識によって屋根に登ったのではない。『上下空間によって二人が見つめ合うこと』という映画的な瞬間を露呈させるために、屋根の上に「登らされた」のである。さらに俊はプールへと飛び込みそれを助けに行った海と手を握る。カルチェラタン救済のデモンストレーションのためにプールに飛び込んだのではない。『海と手を握ること』のために、作者によって屋根から突き落とされたのである。

ここでは『俊が屋根の上に登ること』、『プールに飛び込むこと』という大きな二つのマクガフィンが、海と俊との見つめ合いから接近という空間的運動を可能にするために配置されている。マクガフィンというものは、それによって生み出される時間の流れが物語の流れとは逆行するところの④→③→②→①であることからしてそもそもが奇天烈でぎくしゃくしたものである。①→②→③→④の流れからするならば、屋根に登り、プールに飛び込むという運動はどうしたところでぎくしゃくしている。因果的に無意味なのだ。そんなことをわざわざせずとも物語は①→②→③→④進んでゆける。海が昼食を外で食べることにしてもおかしい。どうして内部で食べないのか。それは俊が飛び込む瞬間を間近で見なければならないからである。だがこの『それは俊が飛び込む瞬間を間近で見なければならないからである。』という理由は批評家の理性を苛立たせる。理由になっていないからである。『どうして神様はこんなことをされるのですか、、、』というキリスト教信者の声に対して『それは神がそのように決められたからである』、、と答えたのがパウロが創設した『予定説』であり、小室直樹はそれをして『逆因果関係』と呼んでいたが、逆因果関係は理性を苛立たせながらも『神=我々の理解不能な存在』を露呈させる。人間は神の被造物であり、被造物に造物主たる神を理解することなどできるわけがない、というのが予定説の真髄であり、神は理解できないからこそ神であり、キリスト教を世界宗教とした手柄は、神を絶対理解不能としたパウロにこそある。逆に言うならば、『理解できるもの』とは凡庸以外の何物でもなく、人はそのようなものにおののくこともなければ恍惚と我を失うこともない。そうした点で『神』は作品に妥当する。作品に対した時、我々はただひたすら驚くことしかできない。それ以外にできることといえば、どうして驚いたかという形式を探ることのみであり、『驚きそのもの』を理解し表現することは決してできない。理性的な因果の流れから逆流し、孤立し、砕け散って拡散している瞬間を言葉で現ることは不可能である。ところがある者たちは『驚くことそのもの』を理解しようと映画を「読もう」とする。彼らはそもそも『理解不能』を、理性によって理解しようと心がけ、理解できないとなると「駄作」と断じて試写会室を後にする。彼らは『バカ』なのではない。『不遜』なのだ。

■Ⅱふたりきりの時間

海と俊との距離。この『距離』という出来事を体験しながら映画を見ていると、作り手の思考回路がより理解し易くなる。ここでの『距離』とは、海と俊とが部室で二人きりになることである。二人きりの時間がゆっくりと流れてゆく。最初は同じ空間に一緒だった水沼は『じゃあ六時な』と集会の時間を俊に確認しながら、海の妹の空を連れ出すために部室を出てゆき、それまで熱い議論を交わしていた他の二人の部員たちもまた部室から走り去ってゆく。それによって初めて海と俊はふたりきりの時間を与えられる。外からは生徒たちの声や小鳥のさえずりが聞こえている。光が傾き、夕暮れになり、水沼が入ってきて二人の時間は終わりを告げる。どうしてここでふたりは『ふたりきりの時間』を得ることができたのか。それは『妹の空が俊のサインをもらいたがったから』であり、かつ『俊が指をネコに噛まれてがりを切られなくなったから』である。さらに言うならば、最初から部室にいたそれ以外の三人、すなわち水沼と、手前で議論をしている二人の部員たちは、出て行くために存在していたのである。

以上の出来事を『俊が一人でいる部室に、海が一人で会いに行った』場合を仮定して比べてみるといい。この場合、すぐに『二人きりの時間』を作出することができ、大多数の作家なら迷わずそうして「ラブストーリー」を撮るだろう。ところが「コクリコ坂から」はそうなってはいない。海は妹の付添いとして妹と二人で部室に行ったのだし、そこで二人が入った部室の中には俊のほかにも3人がいて、246となり、『二人きりの時間』どころか、無理やり『6人の時間』が配置されている。そこには二重の意味合いが隠されている。ひとつ目は『海はみずからの意志によらずに俊に会いに行くこと』である。そのためにわざわざ妹の空は俊に憧れ、サインが欲しいと姉を連れ出したのである。いわば空は、姉を俊の部室に行かせるために、俊に憧れるようにプログラムされたロボットなのだ。空の最大の存在理由はそれである。ふたつ目は『海と俊とは、彼らの意志によらずに二人きりになること』である。そのためにわざわざその他の4人が配置され、その4人は彼らの意志で部室から出て行った。その結果として、海と俊とは二人きりになって『しまった』わけであり、ここで作り手は、念には念を入れることで『不可抗力による密室』を作ったということである。それ以前にそもそも何故海だけが部室に残ったかと言うと、俊がわざわざ指をネコに噛まれて怪我をしてガリ版を削れなかったからである。マクガフィンとは決まって無意味であり物語をギクシャクさせる。

さらにここで水沼が部室を出て行く時『じゃあ六時な』と、時間を指示して出て行ったことを想起して欲しい。不可抗力によって作り出された二人きりの時間には『六時まで』という限定が予め設定されている。私は成瀬巳喜男の論文において、成瀬がいかに周到に『不可抗力の密室』を作り出すのかを検討した。成瀬映画において描かれる密室とは決して『意志による密室』ではなく、『不可抗力による密室』であること、その密室は多くの場合、金属製の装置によって防御された『属性としての密室』ではなく、木と紙と竹でできた軟質の装置の中に、雨や雷によって閉じ込められることで現れる『時間としての密室』であること、その密室は、雨が上がり、雷が止んでしまうことで霧散してしまう『一瞬の密室』であること、だからこそそれはエロスを呼び寄せ、抒情的なものとして炸裂する。「コクリコ坂から」におけるこの部室のシークエンスもまた、見事なまでの繊細な意匠によって、『不可抗力の密室』を作り出している。二人は意志によって出会ったのではない。運命によって引き合わされたのである。

■Ⅲ路地での再会

妹の空とは違い、家事という『時間』に囚われている海は、俊たちの緊急集会を横目に急いで帰宅し、急いで米びつから洗い桶に米を入れる。この時点でそれまでの海の日常的なゆるやかな時間の流れに質的な変調が加えられていることを見逃してはならない。

夕食にカレーを作ろうと材料を調べ始めると肉がない。別棟でテレビを見ている弟たちに買い物を頼むが、「もうすぐ舟木一夫が出るから」と聞き入れてくれない。テレビからは坂本九の「上を向いて歩こう」(宮崎駿の脚本ではここは「見上げてごらん夜の星を」になっている)が流れている。ここで妹の空の「もうすぐ舟木一夫が出るから」というセリフもまた聞き逃してはならない(その理由は後述)

急いで着替え、急いで路地へ出た海は、自転車に乗った俊と偶然出くわす。バックから「上を向いて歩こう」が流れる中→路地沿いに向こうから俊の自転車が来て、すれ違いざま、横からキャメラ(架空の)は二人を逆へ大きく切り返してから手前に振り向く海の顔を捉え、その後、振り向く俊へと寄り、海へと切り替えし、再び俊へと切り替えし、もう一度海へ切り替えしている。この間、二人の間に言葉は交わされていない。言葉を交わさずにひたすら構図=逆構図で切り返されることで終わった「ヒア アフター」(2010)という映画を我々はつい最近目の当たりにしたばかりだ)その後、俊は海へと近づき「買い物?」と初めて言葉が交わされ、海、赤くなる。自転車に二人乗り坂道を下る。中途ブレーキで二人の身体が軽く接触する。肉を買った後、俊のコロッケをもらい、別れてひとりで街燈の坂道を登ってゆく海のバックショットからパンして丘の上の海の家を捉える、、、、、

以上が、屋根からの落下、部室の時間に続いて、海と俊とを運命的に接近させるための策略、第三弾である。ここで遂に作り手は、海の胸と俊の背中とを自転車の上で接触させている。二人は意志して抱き合ったのではない。自転車を運転していた俊が通行人をよけるためにブレーキをかけたから海の体が俊の背中と激しく触れ合ったのである。ここも実に周到に、ふたりが『意志によらずに』偶然その体を寄せ合ったことが強調されている。海が買い物に出たのは肉を買うためであって俊に会いに行くためではなく、俊もまた海に会いに来たわけではなく、ただ帰宅の中途に通りがかったに過ぎない。何故ここまで周到な心配りでもって作者は「不可抗力」に拘泥するのか。それを映画的に言うならば、画面を『放り出す』ことで、二人乗りの自転車で坂道を駆け下りた想い出の瞬間の振動を、ただそのものとしてフィルムに焼き付けようとする欲望にほかならない。だからこそ理性の①→②→③→④はぎくしゃくし、青春の④→③→②→①は揺れ動く。それはあたかも『少女たちの羅針盤』(2011)が青春の不可解な運動を惹起させたことと同じように感動的である。「コクリコ坂から」を見て、一番愚かな感想は『わからない』である。私、この映画の意味が分かりません、、、こう感じた者は、映画館ではなく霞が関あたりを目指すべきかもしれない。

★時間

ここではさらに、坂道を高速で下ってゆく自転車のスピードが、『密室』を創り上げていることを見逃してはならない。異質なスピードに乗って坂道を走り抜けてゆく海と俊の二人は、通行人とは異質な時間を共有し、『二人きりの時間』の中を駆け抜けている。古来、自由な人々の「アジール(避難場所)」としての意義を有していた『坂』という勾配は、車輪を用いることで異質の時間を作出し、それは平坦な道へとたどり着くことで霧散する。この映画の作者は紛れもなく『坂』という出来事を空間的以上に、時間的に利用している。速度が「密室」を作り出すのだ。

★マクガフィンの無限連鎖

このシークエンスを逆に辿ってゆくと→海、買い物に出る→肉がない→急いで帰宅する→部室で俊を手伝う、、、ところまで遡ることができてしまう。部室で俊の仕事を手伝って帰宅に遅れたことが、回り回ってこの『路地での再会』を惹き起こしているのだ。数々のマクガフィンによって引き起こされたはずの『二人きりの時間』が、今度は自らがマクガフィンと化して『路地での再会』を惹き起こしている。私が成瀬論文で指摘したところの『マクガフィンの無限連鎖』という現象を、ここにはっきりと見出すことができる。

この一連の過程において見出すことができるのは、時間のずれ、である。Ⅱまでにおいては「上下」「平行」「部室」といった、主として『空間』的な出来事が画面を露呈させていたのだが、Ⅱの終盤辺りから、それまではまるで通奏低音のように映画を土台で支えていた『時間』的な出来事が一気に上部へと顔をだし、より強い震度でもって画面の細部に混入してきている。

■Ⅳ一緒に走ること。

ここではまず、どうして画家の広小路が『寝坊』という遅延行為をしでかしたのかを直感しなければならない。確かにこのシーンは、海が広小路の書いた絵を褒め、その絵がラストシーンに使われるという『物語的な』役割を果たしている。それは、成瀬論文で指摘したところの①→②→③→④であるだろう。だがそれと同時に、或いはそれ以上の強さでもってこのシーンを支配している力は④→③→②→①のマクガフィン的運動である。広小路は『海の時間を遅らせるため』に寝坊させられたのである。広小路を起こしに行ったお蔭で時間が遅れてしまった海は、走って学校へ行く。海が『走る』という運動をみずからの脚でしたのはここが二度目である。家事に追われながらの規則的な海の時間が、次第に『早歩き』となり、『走ること』へと乱されて行く。

★海の時間

この映画は日常的な時間の流れで始まっている。朝起きて布団をたたみ、鏡に向かって三つ編みを結い、階段を降りて窓を開け、ご飯を炊いて換気扇を回し、花を活け、父の写真の前に水を置き、外へ出て旗を揚げる。こうした海の細微な運動を同じリズムで幾つも幾つも描写し続けることで、画面は日常的な時間の流れにあることを主張している。海は毎日毎日同じことを同じテンポでしているのです、、そう語りかけているのだ。こうした『時間』に対する神経は、鈴木卓爾「ゲゲゲの女房」(2010)のオープニングの自転車と坂道のショットにおける作家の神経の使い方に酷似している。運動の流れ、装置、衣服、小道具、声、すべてが「日常性」という時間の中でゆったりと流れていて、そこには間違っても異質な驚きや不意の出来事は侵入しようがない。多彩でしなやかな細部に満たされることで初めて画面は「平凡」を獲得することができる。「コクリコ坂から」のオープニングは、動作、装置、美術、衣装、声質、台詞といった画面の細部が、いかにして「日常性」を露呈させるかという一点に集中している。ここをしくじってしまえばすべてがオジャンだ、そんな気迫に満ち溢れている。鏡の前に長く座って髪を整えてから(伝聞)階段を駆け下りて食卓へやって来る妹の空と、ほんの一瞬見つめるだけで鏡の前から移動してしまう海との差異は二人の所有する時間の差異をそれとなく露呈させている。やや小走りに鞄を掴みながら家を出た海に対して、偶然通りかかった源さんの『乗って行くかい?』という問いかけを断るシーンを加えたのは、まさに海の時間が日常性に支配されていることの強調に他ならない。海は『走ること』を必要としない時間の中に規則通り存在しているのだ。

長澤まさみによる抑えられた海の声質は、心理的起伏におけるその場限りの高揚からはかけ離れた時間の平坦さを映画的に漂わせてゆく
(特集番組で見たが、宮崎吾郎はこのオープニングで海の声優である長澤まさみにNGを出し、声を抑えるように指導している)。ひとつひとつの仕事を流れるようにこなしてゆく海の動作や表情からは、その動作について考えたり理由づけたりという心理的な屈折がなにひとつ露呈してはいない。「コクリコ坂から」において、そんな海が初めて走ったのは、カルチェラタンの屋根からプールに飛び込んだ俊を助けに行った時である。上述のチャプターで言うと、茶色で染めた部分が海の『走った』シーンであり、その大部分は『青』で塗られる『マクガフィンの帰結』と重複している。マクガフィン()が、『茶』を起動させているのである。Ⅰの場合であれば、俊が『屋根に登り、飛び降りること』という、意味のない突飛な運動(マクガフィン)が、海の『走ること』という運動を惹き起こしている。それがⅢにおいて『二人乗りの自転車で坂道を駆け下りること』という運動へと発展し、とうとう海はⅣにおいて、広小路嬢のマクガフィン的策謀としての『寝坊』によって大きく時間をロスさせられ、学校に走って行くはめに陥ってしまうどころか、たまたま下駄箱で一緒になった俊と一緒に階段を駆け上がり、教室まで走り抜くという運動を余儀なくされるのだ。こうした海の時間の流れを決定的に崩したのは俊という少年の存在である。恋愛は、それをする者たちの時間の観念をいとも簡単に崩し去る。この映画の脚本は、空間のみならず、『速度の変化』を前提に書かれている。

■俊の時間

俊の時間は海と似ている。俊は遠距離からの自転車通学であり、坂道での自転車の二人乗りのシーンで俊は海に、自分には門限があると告げている。時間に縛られた存在である点について俊は、家事に縛られた海と似た境遇にある。限られた時間を共有する二人の運動は、カルチェラタンの生徒たちとは異質に見える。時間を持て余し、議論や討論に明け暮れる生徒たちと二人とは、まったく時間の質が異なっている。それは境遇の違いであり、海と俊とは境遇が似ている。ただし俊は自転車を通じて『走ること』を知っており、海の時間は『走ること』において俊へと感染してゆく関係にある。時間に縛られた二人には我慢と葛藤があり、そんな彼らが運動することその瞬間瞬間が、対抗する力を凌駕する運動としてのエモーションを惹き起こす。この映画は時間を人物描写に代えながら、時間を運動の質に関係させている。脚本の書き方として天才と言うしかない。

★北斗と広小路

こうして『二人で一緒に走ること』を通じて、映画的に高揚した海と俊とは、その後、夕陽の坂道を二人きりで歩いて下り、さらにまたⅤのシークエンスにおいては、北斗のサヨナラパーティをマクガフィンとして家の中を『二人きりで』遊歩している。北斗がただのマクガフィンであることは、わざわざ物語の中で空の口から『お姉ちゃん、北斗さんの挨拶』と促された北斗のお別れの挨拶が見事に省略されていることからも現れている。北斗はそのサヨナラパーティにおいて、海が俊に家の中を案内し『二人きりの時間』を授けるためのマクガフィンに過ぎない。否、北斗に限らず、海の周囲に配置されたあらゆる現象は基本的にはマクガフィンである。ただし、Ⅵの中途で海が、荷物をまとめている北斗に挨拶をするシーンがある。これがミソである。私にはこれがサッパリ判らない。なぜこんなシーンが必要なのか。北斗はマクガフィンとしての役割を終えているのだから、このシーンはまったくもって不要なはずである。それはあたかもⅣにおける広小路の状況と似通っている。寝坊をした広小路は、それによって『海の時間を遅らせる』というマクガフィンの仕事を果たしたのだから、何もその上に、彼女の描いた絵をわざわざラストシーンに持ってくる必要などない。それを映画はわざわざ海をして北斗に挨拶をさせ、また広小路の絵をラストシーンに使用するということをしている。これが実は『トウキョウソナタ』(2008)の黒沢清とは違うところである。『トウキョウソナタ』の役所広司は、そのマクガフィンとしての役割を終えた途端、サッサと捨て去られていたのだが、ここでの二人の女性は、マクガフィンとして機能した後も、その後の物語的因果に寄与させられている。これは結局のところ、④→③→②→①の強度において「トウキョウソナタ」が「コクリコ坂から」よりチョイ強い、ということだ。

■Ⅵ~

ⅠからⅤまでによって、海と俊との空間的接近、そして海の日常的時間の攪乱、という大きな2つが描かれたあと、青春の高揚は憂鬱へと変わってゆく。すると当然ながら雨が降る。成瀬巳喜男の「春のめざめ」(1947)のように、思春期の体に上から下へとのしかかる重力が二人の身体にエロスの圧力を加え、それまで幾度か反覆された爽やかな『二人きりの夕陽の坂道』という不可抗力の密室の空気の密度が、より湿り気を増したものとして画面を重くする、そのために雨はマクガフィンとして降りそそいでいる。

■意志によらないこと

物語的に言うならば、そもそも作者が描きたかったのは、恋愛に対する意志的な直線運動ではなく、不可抗力による曲線的な跳梁である。そこから主題が決まり、人物が設定されてゆく。徹頭徹尾「ずらす」ことで、映画はナマの運動の坩堝へと投げ込まれてゆく。あらゆる出来事が『意志に依らずに』不意に起動され、心理的牢獄の中へと取り込まれることなしに次なる運動を起動させている。

★「上を向いて歩こう」

Ⅲの路地で海と俊とが鉢合わせした時に流れていた坂本九の「上を向いて歩こう」が、どいういう形で挿入されたかもう一度よく見てみよう。まずもってこの「上を向いて歩こう」は、海と俊との鉢合わせの瞬間には既に流れていた。鉢合わせをした瞬間、劇的に挿入されたのではない。ここは決定的に重要である。映画の中で、自分の好きな曲を劇的な瞬間に入れたがる凡庸が古今東西後を絶たないが、彼らは端的に『ずらすこと』という映画における決定的な快楽≒享楽を知らない。だから自分の愛する曲をドテっと心理的に入れてしまう。それに対して客は『知ってますよ』と反応し、共犯的な神話作用は見事に完成する。対してこの「上を向いて歩こう」は既に流れている。「上を向いて歩こう」という曲に始まりと終わりという心理的な『端っこ』があるとすると、二人の路地での鉢合わせにおいて流れていた「上を向いて歩こう」は過程の運動としての『最中=モナカ』なのだ。

もう少し見て行こう。ではこの「上を向いて歩こう」の『端っこ』=曲の始まりは何処か。そのためにはフィルムをもう少し巻き戻さなければならない。それは祖母の部屋に映っていたテレビの中にある。そこで坂本九が「上を向いて歩こう」を歌い始める。海と俊との鉢合わせをドラマチックに飾り立てたはずの「上を向いて歩こう」の『端っこ』=心理的起源はなんと、鉢合わせの瞬間にはなく、大きく時間的に「ずれ」たところの祖母の部屋のテレビにあったのである。あの路地における
3ショットに亘る無言の見つめ合いを劇的に彩っていたはずの「上を向いて歩こう」は、心理を駆逐された二人の不可抗力による出会いと同じように、実は心理的なステレオタイプを削ぎ落とされた『モナカ』としての過程運動にあったのだ。まだある。祖母の部屋で海に買い物を頼まれた妹の空は『もうすぐ舟木一夫が出るのよ~』と駄々をこねて姉の頼みを断っている。画面で歌っているのは坂本九であり、曲は「上を向いて歩こう」である。にも拘わらず妹の空は、わざわざ『もうすぐ舟木一夫が出るのよ~』という「ずれた」セリフを言わされている。目的はあくまで『舟木一夫』であって『坂本九』ではないことをやんわりと強調しているのだ。こうして「上を向いて歩こう」は、二重の仕掛けによって周到に「ずら」されている。あの路地における『無言の見つめ合い』という映画的瞬間を協働した「上を向いて歩こう」は、その心理的『らしさ』や起源としての意味を徹頭徹尾放逐され、その起源すら葬り去られた無色透明な振動であったのだ。この演出は偶然ではないのか?、、そんな異論が出てきそうだが、必然である。これは明らかに意図的にそうするために書かれている。

決して『どうだ』としゃしゃり出ることなく、究極の慎ましやかさにおいてさり気なく置かれた細部であるからこそ肉音として振動し、画面を揺らす。それにしても、なんという細かい芸当か。私はどうしても脚本が読みたくなり、買って読んでみた。

★吾朗か駿か、、、

Ⅰ~ここまで検討したことの大部分は、既に宮崎駿の書いた脚本に書かれている。ただし、Ⅲにおける路地での鉢合わせのシーンにおいて、海と俊とを無言の構図=逆構図の切り返しによって見つめ合わせたこと、この決定的な映画的カット割りは、宮崎駿の脚本には書かれていない。ただしそれ以外は基本的に脚本通りに撮られていて、東京の理事長に会いに行くシークエンスもまた、殆どすべて、脚本通りに撮られている。海を東京行きへ誘ったのは俊ではなく水沼であったこと、理事長との談判が終わった後、水沼が不意に神田の叔父の家に寄るなどと言い出して消えたこと、それによって海と俊とは不可抗力によって『二人きり』になったこと、、

ここでは、東京行きの『水沼』という存在そのものがマクガフィンとして在ることがはっきり分かる。彼は海を東京へと誘って俊と同行させ、そこから自分がわざわざ消えることで海と俊とを不可抗力で『二人きり』にさせるために東京へと同行したマクガフィンであり、こうした性向は、部室のシークエンスにおける水沼、空、他の
2人の部員が『消えるために存在したこと』の性向とまったく同じである(3-12)。さらにまたその後、海と俊とが歩いた夜の山下公園やちんちん電車の近辺には殆ど人影らしきものがなかったこと、それによって二人はまるで成瀬巳喜男の「山の音」(1954)のラストシーンにおける夕暮れ時の新宿御苑の原節子と山村聡を包み込んだ『不可抗力の密室』の如くに、夜の『密室』の中を『二人きりで』歩いたこと、その後、向かって来るちんちん電車を背景にした見事な構図は、この東京のシークエンスそのものが、『マクガフィン』であることを画面そのものの揺れによって露呈せしめている。私の感覚で言えば、理事長の存在もただのマクガフィンである。

以上の描写はほぼ、脚本に書かれた通りである。ただ、宮崎吾郎はこの脚本を壊せないことを知っていたことにおいて作家としての足跡を残している。終盤、ボートから貨物船のタラップに海が飛び乗った時、結果として海と俊の体が激しく触れ合うという脚本に書かれていないシーンは、不可抗力のよる抱擁というそのマクガフィン的回路において、吾朗が駿と通底することを忍ばせている。

近親相姦

アメリカから帰って来た母の良子に『俊はあなたのお父さんに似ている?』と聞かれた海の眼から、不意に涙が溢れ出てくる。それは嬉し泣きや悲しい涙といったステレオタイプとは決定的に離れた場所から湧き出た涙としてある。そもそも俊が父に「似ていること」は物語的には海と俊との近親相姦性を裏付ける証拠でしかなく、海にとっては嬉しいどころか悲劇であるはずにも拘わらず、ここで涌出した海の涙は悲劇的なそれともまた違った極めてエモーショナルな肯定の涙としてある。仮にこの映画が①→②→③→④で流れていたのなら、この直前に為された『その子、いい少年になった?』という母の問いに対して泣くのが本筋である。ところが海は、こうした安全な=道徳的な問いをにっこり頷くことでサラリとやり過ごし、即座に『でも、もしも風間さん(俊)がお父さんの本当の子供だったら?』、と危険な領域に突入して行く。それは母にとっては浮気、娘にとっては近親相姦を意味する危険な問いであり、運動の流れとしてはゆっくりと①→②→③→④の物語的な快楽を裏切り始めている。それに対して母は、『あの人の子供だったら、、会いたいわ。似てる?この(あなたのお父さんの)写真と』と、これまた裏切りの速度を高めて感慨深げに問い返している。これは明らかに物語的な逸脱であり、既にこの時点で母と娘のコミュニケーションは異次元の流れへと飛び込んでいる。本来なら母は娘のこの危険な問いを打消し、閑話休題、話を『本題』へと戻すためのあらゆる努力をするだろう。それをこの母はしない。それどころか疑念の速度を高めるようなさらなる問いを娘にぶつけている。

『あの人の子供だったら、、会いたいわ。似てる?この写真と』

この母の一言に、海の中から突如大粒の涙が流れ出てくる。それは物語や道徳からは異次元の振動であり、内に秘められていた海の何かを弾いてしまったことによって解放された禁制の流れである。本来否定的であるはずのものを肯定することによってエモーションを惹き起こす。このシーンはこの「コクリコ坂から」という映画の運動の流れを端的に現している。近親相姦=「似ていること」から諦めかけた俊との恋を『父と似ている』と肯定することで内から溢れ出るエモーションとはいったい何か。

この映画の運動の流れが逆モーションから来るか、或いは物語を横から垂直に突き刺すものとしてある以上、エモーションはその内容ではなく形式としてしか解き明かすことはできない。形式とは運動であり、『似ていること』とは、運動を起動させる力と、それによって引き起こされた運動の質にある。父へのメッセージとして揚げられた小さな旗が風になびいて俊の目に留まって以来、海の前にはまるで誰かに突き動かされているかのような不思議な力()によって俊が出現しては海の身体を揺らし続けた()。海は時間を掻き乱され、走らされる。その運動は、ひょっとして父が惹き起こしたものかも知れない。俊の運動の中には父がいる。海がそう感じたのは、それまで惹き起こされた海の数々の運動がことごとく、不可抗力という反心理的な振動によって惹き起こされていたからにほかならない。ふと気づくと、目の前には俊がいる。海と俊のあいだには誰かがいるのかも知れない。そうした海の秘められた想いが『あの人の子供だったら、、会いたいわ。似てる?この写真と』という母の言葉によって解き放たれ、抑えきれない運動の記憶()がエモーションの粒となって海の中から溢れ出たのである。

映画研究塾.藤村隆史

参考文献

『ローマの使徒への手紙』パウロ.新約聖書
『脚本・コクリコ坂から』角川文庫